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ビルマ・インパール作戦

飢えと自決で死体散乱

 食糧・弾薬届かず手榴弾での自爆続く

 

  「ビルマのインパール作戦に参加した。日本が焼かなくていい部落を焼いたり、殺さなくていい民間人を殺したりしたことを見てきた。同時にわれわれのなかからも、敵の戦斗でというよりも、マラリアやアミ―バー赤痢や栄養失調で、つぎつぎに死者が出た。敵が戦斗機で上空から道路や橋を爆撃して輸送路を断ったため、食糧や弾薬が届かなくなったからだ。それで最初は一人一人が手榴弾で自爆した。足りなくなると、車座になって、一個の手榴弾で集団自決した。手榴弾もなくなると、マラリアなどで動けなくなった兵隊に『楽になりたいか』と聞いて、ピンク色の注射を打つ。するとすぐにこときれていった。ふたたび日本の土を踏むこともなく。こうして私たちの連隊は、四百人いたのが、生き残って日本に帰ってきたのはわずか三百人だった。

(下関、久芳二市)

 

 

インパール作戦。標高2500m、幅50kmの樹海におおわれた山脈をこえる
インパール作戦。標高2500m、幅50kmの樹海におおわれた山脈をこえる

 戦友の小指を切りとり持ち帰った

 

  「ラングーン港からビルマ各地を移動中、トラに食われた無惨な戦友の姿を見た。悪性マラリアのため、高熱と下痢で奈落の底に突き落とされた、死の谷といわれたアラカン山脈の中ほどにあるシンゴダインでは、やっとたどりついた戦友がつぎつぎと死んでいった。昭和二十年の五月になって、やっと転進(退却)作戦にむかった。そこから東へ東へと千二百キロの道程を百四十日間、裸足の雨中行軍、無謀な渡河作戦など、飢えと病気に襲われながら、ついていかなければ手榴弾が渡され死ぬしかなく、ついていけない兵隊がつぎからつぎへと倒れていった。壁土を練ったような泥擰(泥道)からぬけ出せず立ったまま死んでいた戦友の小指を切りとり持ち帰った。

 

 シッタン河の渡河作戦では五十%は流され、下流には万を超える死体が流され、黒いハゲタカがその死体に群がった。また、先行していた兵士が地雷にやられ、死体があちこちに散らばっているなかを移動したときは、足が飛ばされ上半身だけが倒れぬままの死体にハエが群がり黒いダルマのようになっていた。仰向けの死体の口から稲が生えていたものも見た。私は偵察任務に出てついに歩けなくなり、座り込んでしまい、自決を決意し手榴弾の安全弁をぬいてたたきつけようとして昏睡した」

(岡山県 小田敦巳)

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2023年11月に山口県岩国市西岩国駅ふれあい交流館で開催された「原爆と戦争展」のご報告と、アンケートを掲載いたしました。

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