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米軍はマニラや長沙を焼き払い住民を殺した

米軍の空襲と砲撃で焼け野原となったマニラ市街
米軍の空襲と砲撃で焼け野原となったマニラ市街

米軍が町を焼き払い 住民を

焼きころした

 

 「米軍のマニラ攻撃は、空からの爆撃、迫撃砲、榴弾砲、戦車砲などあらゆる火砲をもってマニラを焼け野原にした。とくに日本軍が潜んでいるとみられるめぼしいビルなどは片っ端から破壊した。こちらには旧式野砲が三砲あるだけで、日露戦争で使った村田銃が七人に一丁。あとは竹ヤリだった。米軍は三十発連射の自動小銃だ。たたかうというより逃げ惑うのが精一杯だった。地上から出れず、地上に出れば蜂の巣にされる状態だった。陸戦隊隊長の岩淵少佐は二月二十六日に自決し、八百~千人いた一、二大隊は全滅した。マニラ市街を焼き払ったり、住民を虐殺したのは日本軍といわれているが、日本軍にその余力はなかった。住民を虐殺したのは無差別爆撃をした米軍の側だ」

長崎市 酒井 冨吉)

 

 

中国でもいたるところで無差別空襲した

 

 「湖南省の長沙というところに駐屯していたが、ある夜、そこから桂林に向けて物資を送ろうと川を渡していたら、米軍機が閃光弾を放って攻撃してきた。米軍のB29の編隊がやってきて、長沙という下関と同じくらいの規模の二十五万の都市を、一夜にして焼け野原にしたことを目の前で見た。中国人に聞くと米軍の空襲はここだけではないといっていた」

(下関市・池田節夫)

 

「(中国の)咸寧で旅団長の訓辞があって解散した途端、米軍戦斗機P51一機が飛来、低空から機銃掃射をしてきた。幸い犠牲者は出なかったが、こんなところに米軍がいるのかと驚いたものだ。米軍といえば、このあと南京に駐屯していたときに、毎日午前十時頃、定期便のように爆撃機B29が十基一編隊で上海方面に向かい、一機が十二発ずつ爆弾を投下するのを見た。あとで聞いたことは、米軍は軍需関係の工場や施設には爆弾を落とさず、民間の住宅や施設を狙って落したという」

(下関市・河野宏逸)

 

 

B29による中国四川省・内海への空襲。日本への焼夷弾空襲のテストもかねておこなった
B29による中国四川省・内海への空襲。日本への焼夷弾空襲のテストもかねておこなった

米軍は赤十字のマークをつけた病院を狙い打ちにした

 

 「米軍機が飛び始めるのは日本軍がヘトヘトニなってきた昭和十八年頃だ。昼間は動けず、夜にご飯を炊いていたが、その煙が上がった地域一帯を無差別に爆撃する、アメリカは『日本軍がいる』といっては、中国のいろんな都市を民家もふくめ無差別に焼き払った。これはアフガンで『ビンラディンがいる』と全土を焼き払ったのと同じやり方だ。米軍は中国戦線で野戦病院も爆撃した。建物に赤十字の印があれば国際法上攻撃してはいけないはずだが、戦後『手前を狙ったが外れた』とごまかしている。これもイラク戦争での『誤爆』とそっくりだ。『パールハーバー』などといって日本本土に空襲をやり、原爆を落としたことも言語道断だが、これがアメリカだ。第二次世界大戦はまだ終わっていない」(北九州市 長原 久一)

 

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