岩国原爆戦争展展示内容長崎原爆>なぜこんな目に

なぜこんな目に

―なぜこんな目にあわねばならぬのか

新大工町・天満市場

兄弟がいないのがこたえる

 

 十九歳で水の浦造船所に勤めて九日目に被爆した。家は山里なので、そこにいたら死んでいただろう。弟は瓊浦中(現…西高)で被爆しているので捜してもわからず、幾日か後に大村の病院から「ふとんを持ってきてほしい」というハガキがきてかけつけたが、八月二十四日に亡くなっていた。報国隊の友だちに聞くと、運びこまれたときから前か後ろかわからないくらい全身真黒になっていた。むしろのうえに二十日近くも寝かされて…苦しかっただろう。それが一番の心残りだ。もう一人の弟は、山里の自宅玄関でかかみこんだままちぢこまって蒸し焼きになって転がっていた。蒸し焼きだからパンツの跡がついているほど無傷だったが、目からは黄色い汁が出ていた。

 

 

七十九歳(取材当時)・婦人

 

十日にやっと見つけたが、連れて帰ろうと思った翌日はもう亡くなっていた。自分の手で葬ってやれなかったのが悔やまれる。弟の写真がどこかにないか探している。どこかにないだろうか。母は三十六歳で、おばあちゃんと二歳十カ月の弟の三人は自宅で焼け死んだが、死体は砕けてしまって膝の関節部分がわかっただけ。妹は坂本小学校で昼ご飯のところてんを買いに行く当番で学校を出たというところまでわかっているが、それ以来わからないままだ。結局、弟が三人、妹、母、祖母の六人が亡くなり、戦後は被爆で顔に大けがをした父と二人で生きてきた。歯がゆくて、なんでこんな目にあわなければならなかったのかと思う。この年になると兄弟がいないのが一番身にこたえる。

「長崎の怒り」より

 


 -がれきと燃えさしの長崎

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(長崎)爆心地の東120メートルから撮影(1945年10月中頃) 林 重男氏撮影
(長崎)爆心地の東120メートルから撮影(1945年10月中頃) 林 重男氏撮影

―黒こげの少年

八月十日 長崎 

爆心地から700mの岩川町で

炭のようになって死んでいた少年

(被爆から71年目にして谷崎昭治さんの可能性があると鑑定)

山端庸介氏撮影

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 十一人いた家族は兄と二人だけになった

 

 

 わたしは十一歳のとき、爆心地から八百メートルの上野町で被爆した。空襲警報になって自宅からすぐ近くの姉の家の庭にある防空壕に家族で避難していたが、警戒警報になった。すると、友だち十人くらいが来て「川に泳ぎに行こう」というので、親に止められたが出かけていって川で裸になって泳いでいた。一休みしているとむこうから農作業をしていた女の人たちが川にむかってきたので、恥ずかしくて川に飛び込んだ瞬間に原爆が落ちた。水面に顔を上げると夕焼けのような空で、川面一面は木の葉がぎっしりと敷きつめられたように散っていた。なにがなんだかわからず、裸のまま家の方にむかった。途中で家が崩れて梁(はり)の下敷になったおばさんが「助けてくれ!」といっていたが、どうすることもできず、家に帰った。家はぺちゃんこになり、祖母とすぐ上の兄が下敷になって即死していた。

 父が浦上駅で被爆したが、街中はとおれないので山手をとおって本原まで帰ってきて下敷になった家族を助け出し、それからはみんなで防空壕の中で暮らした。長姉は稲佐まで配給をとりに行っていて両足、両手を大やけどして帰ってきたので、そのやけどを冷やすためにわたしが毎日山に水くみに行ったが、そこで昨日生きていた人がつぎの日には死体となり、頭から足元までウジがわいていた。岡町では親子が抱きあったまま焼け死んでいる姿を見た。すざまじい光景ばかりだった。

七十一歳(取材当時)・男性

 

 兄の嫁が十八日、次姉は二十四日に死んだ。母が二十六日に死に、すぐ上の姉が二十八日、弟が三十日に死んだ。父は、水を飲んだら吐くほどに衰弱して、食べ物も喉(のど)をとおらなくなり、一カ月で髪の毛がぬけて頭はツルツルになった。体中に血の斑点ができていた。九月四日の朝、気分が悪いといっていたが、「兄ちゃんのいうことを聞いて、しっかりやれ」と一言いって死んだ。あっという間だった。十一人いた家族は、兵隊に行った兄二人とわたしだけになった。おじ、おばたちは十人、いとこは二十人死んでいる。つぎつぎに死んでいく家族をまえに、涙の一滴も出なかった。なぜなのかいまだに心にひっかかっているが、あまりにも悲惨な光景ばかり見てきたせいだ。

 戦後は、孤児になったいとこたちといっしょに親せきの家に預けられて暮らした。原爆で殺したものが威張って、殺されたものはみじめな生活を送ってきたのだ。最近は加害者ばかり守られる風潮があるが、被害者はほんとうにみじめなものだ。長崎には「召されて妻は天国へ」(長崎の鐘)という歌があるが、そんなきれいなものじゃない。原爆では虫けらのように殺されたんだ。原爆を真先に捨てるべきはアメリカだ。原爆さえ落とさなければ、兄弟たちはいまも元気で生きているはずだった。

 

「長崎の怒り」より


― 母子

長崎 八月十日 爆心地から1キロ 浦上駅プラットホームで死んでいた母子 山端庸介撮影

長崎 八月十日

爆心地から1キロ

浦上駅プラットホームで死んでいた母子

 

山端庸介氏撮影

―救護を待つ人々

長崎 八月十日

宝町付近の路上で

線路わきの乗り捨てられたトラックのまわりに倒れて救護を待つ人々

 

山端庸介氏撮影

●新着情報

2023年11月に山口県岩国市西岩国駅ふれあい交流館で開催された「原爆と戦争展」のご報告と、アンケートを掲載いたしました。

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