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岩国空襲体験談 「戦争はもってのほか」 野元 喜代乃

 (平成21年5月発行 冊子 空襲の時代を生きてより)

戦争はもってのほか

 

野元 喜代乃

 

 私は玖珂本町で時計店を営んでいた山根家の六人兄弟姉妹の五番目として生まれました。玖珂小学校から高森女学校を卒業してのち二年間、お茶、お花、裁縫など嫁入り修業させてもらって、昭和十八年の四月、縁あって岩国旭町の野元正男と結婚することになりました。

 

昭和十八年といえば太平洋戦争も激しさを増して結婚式も身内の人たちの間で済ませましたが、旅行は一週間かけて、汽車に乗って、小郡、下関から山陰方面の旅をしました。この時から夫とその両親と私の四人の生活が始まりました。

 

 夫正男は当時山パルで働いていましたが、昭和十九年の一月、結婚生活からわずか九ヶ月のとき、突然召集令状がきて山口の連隊に入隊することになりました。夫は山口での三ヶ月の教育が終わると中国大陸に送られました。中国大陸に行ってから数回ハガキが送られてきましたが、その後音信はなくなりました。

 

 家では夫の両親と三人で暮らしていましたが、しばらくして優しかった父が突然脳溢血のために亡くなりました。男手のなくなった家業は、気丈な母のもとで生易しいものではありませんでした。百姓の経験の全くない、嫁いで間もない私にとっては耐え切れず、玖珂の親元へ泣いて帰ることの繰り返しでした。しかし、親は、「正男さんが戦地で命をかけて頑張っているのに、お前がそんなことでどうなるか」と言って家に上げてくれませんでした。しかたなく私は隣りの納屋でうずくまって寝、また旭町へ帰ることでした。

 

 そうこうするうちに、今度は母が腸捻転を患いました。今では手術をすれば良くなるのですが、当時はそうした病院もなく、また車もないので、私はリヤカーの上に蒲団を敷き、その上に母を乗せて中川医院に通いました。しかし、通院の詮もなく、しばらくして母は亡くなりました。その時は空襲も激しくなっており、葬式もまともにできる状況ではありません。そのため市に頼んで火葬してもらい、骨壺も手にはいらないので、味噌を入れる陶器の壺にお骨を入れて、車町にある先祖のお墓におさめました。

 

 こうして空襲の激しい昭和二〇年には、私一人となり心細い思いの中を必死に生き抜いてきました。そのうち次第に近所の人とも親密になり、沖で採れる魚や野菜なども貰うなどして食糧難の時でも生きていく上で不足はありませんでした。

 

 近くに大阪から来られた清原さんが経営される岩国木材がありました。そこで働いておられた高木薫さんや奥さんの安與さんとも親しくなりました。薫さんは当時、長谷川一夫のような美男子として若い女性から憧れの人でした。岩国木材の隣には芒硝の会社がありました。

 

 この頃は毎日のように空襲があるので、防空頭巾、モンペに貯金通帳など大切なものを入れた袋は、寝ても覚めても、風呂に入るときも身から離しませんでした。空襲のとき入る防空壕は、近所の金川さんの立派な防空壕でした。何度も入るので防空壕のなかでは、それぞれの座る位置が自然に決まっていました。

 

 丁度長崎に原爆が投下された八月九日、突如空襲警報のサイレンが鳴って、それが一旦解除になった昼頃、艦載機グラマンが大挙やってきて、川下の航空隊を襲い、この附近一帯は焼夷弾と機銃掃射の攻撃を受けました。バリ、バリ、ドーン、ドーンの音が続きました。

 その日防空壕に入り遅れた私は、自宅の隣にあったボロ小屋の縁に、ブルブル震えながらちぢこまっていました。静かになったので外に出てみると、岩国木材、芒硝で働いていた人たちと思われる多数の遺体が、川土手にずらーと並べてありました。私は恐怖のあまり、その遺体をまともに見ることはできませんでした。

 

終戦前日の駅前空襲の恐怖も忘れることはできません。玖珂小学校の時の同級生であった浅枝(旧姓坂口)さんが、人権町に嫁にきておられ、日頃行き来していました。心配になり、爆撃が終って、彼女の家のあたりに行ってみたら、浅枝さんの姿は勿論、家も何もかもなくなっていました。おそらく爆弾が家を直撃したのでしょう。それ以降今日まで彼女の姿に接することはありませんでした。

 

 長い長い戦争が終って、その翌年の暮れのある日の夕方、私は離れにあるお風呂を炊いて、夕飯を済ませ、風呂に入って、さあ寝ようかと思って蒲団の上でごろごろしていると、七時すぎであったろうか、コトコトと雨戸を開けようとする音がする。「オイ、オイ」「わしじゃ、わしじゃ」の声がする。少し開いた雨戸の方をよくよく見ると、そこには出征した夫の姿がありました。夫は朝鮮から山陰の方の港に着き、汽車で岩国駅で降り、そこから歩いて一銭橋まで帰ってきたら、台風で一銭橋が落ちていたので、いったん引き帰し、今津川に掛かっている鉄橋を渡って帰ってきたのでした。

 

 あの時の感動は一生忘れることはありません。今日一日と一日千秋の思いで待ちに待っていた夫正男が「わしじゃ」「わしじゃ」と言って帰ってきたのですから。その晩は一睡もせず、あれもこれもと語り明かしました。

 

 翌朝、夫は真っ先に本家に出向き、帰国の報告をおこないました。本家では、「ありゃー、まーちゃんお帰りたか」と大変喜ばれました。夫が「わしの留守のあいだ、喜代乃はどうしゃったかいのー」と聞くと、「喜代乃さんは家をしっかり守っちゃったで。お父さんお母さんによう尽され、看病や葬式なども、わからん時は、どうしたらよかろうかと相談に来られてしっかりやられました」といわれたということでした。その夫も十七年前八十三才でなくなりました。

 

 夫と私の間には、なかなか子供が授かりませんでしたが、昭和二十六年に長男が生まれ、現在二人の孫も立派に成長し、私も幸せな日々を送らせてもらっています。

 

 大正八年生まれでまもなく九十才を迎えます。戦前、戦中、戦後の波瀾のなかを生き抜いて、つくづく思うことは、‶戦争はもってのほか″二度と繰り返してはいけないということです。

 

それにつけても、いまの世の中の乱れはなんとしたことでしょうか。なんで日本人がこんなに悪くなったんだろうかと思います。親殺し、子殺し、誰でも良かったといって人を殺す。情けない。何故こうなったのか。算数や英語が百点でなくても良い。われさえよければでなく人々を思う気持ちが大切。立派な人間性を創ることが大切だと思います。

 

 

 

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2023年11月に山口県岩国市西岩国駅ふれあい交流館で開催された「原爆と戦争展」のご報告と、アンケートを掲載いたしました。

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戦争で犠牲となられた方々の御霊に謹んで哀悼の意を捧げます。そして、今もなお被爆による後遺症で苦しんでおられる方々に心からお見舞い申し上げます。 

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