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岩国空襲体験談 「私の小学生時代」 村岡 敦子

 (平成21年5月発行 冊子 空襲の時代を生きてより)

私の小学生時代

― 二度と戦争を繰り返さないために ―

 

村岡 敦子

 

 一、通 学 路

 私の家から、麻里布小学校までは、およそ二キロ余りの道のりがあり、クラスの中でもかなり遠い方だった。下校時は、同じ方向に帰る友だちと一緒に文字通りの道草を摘み、田んぼの側まで逆さまになっておたまじゃくしを覗き込んだ。ジャンケンで何歩ずつかを飛びはねて進む時は、中々時間が掛かる。今度は電柱から次の電柱までが鬼ごっこになり、背中のランドセルも、中のノートや筆函も一しょになって、ガチャガチャと音をたてて踊った。黒い木の電柱にたどり着くと、体の一部を柱に付け安堵して一休みした。

 クラスの違う子の群れと一しょになると、どうかすると口争いの合唱が始まる。夏の暑い日など叫ぶ度に顔を真赤にし、汗を吹き出しながら帰って来たものである。

 その道を向こうから馬車がやって来ることがある。西岩国まで荷を運んだ帰りで、その細長い荷台の上は大抵空になっていた。

「あっ、馬車が来た!」

 誰かが見つけると、私達はますます歩をゆるめて近づいて来るのを待つ。馬車のおじさんは、一仕事終えての気楽な面持ちで布製の帽子を深くあみだに被り、手綱を持って自分も馬のすぐ後ろの荷台に腰かけていた。適当に近づいて来たところで、

「おじさあん、乗せてェ」

とちょっと語尾を上げて言うと、おじさんはだまったまま帽子の頭を縦に振る。ごく稀に黙って横に振るおじさんもいてがっかりすることもあったが、大抵は乗せてくれた。しかし馬車を止めてくれるわけではない。おへその上から胸位まである荷台にまず手を乗せ、馬車の動きに数歩うまく合わせて進んでから、ひょいとお尻を乗せなければならない。運動神経の良い子、器用な子は横からでもひょいと上手に乗るけれど、これは車輪の前だから落ちればそのまま下敷きである。みんな、ちゃんとその子の機敏さに応じた場所を心得ていて、自然に譲ってくれる。私は後の一番乗りやすい所へすぐさま走るが、乗る時は呼吸を整えて緊張の一瞬であった。それでもたまには変に腰をぶっつけて痛い思いをしたが、誰もそれは口に出さない。うまく飛びつくと、全員外向きに坐り足をぶらぶらさせながら、馬車に出会えた今日の幸運を口々に喜び合った。凸凹の所に来ると、小さなお尻は荷台を離れて飛び上がったが、がたがた……………声まで揺らせておしゃべりを続けた。

 馬は突然立ち止まる。次に尾の付け根をぱっと上げたと思うと、急に玄関口が大きく開いて中からもりもりと落ちて来る。真近かに正面からそれを見せられるので、みんなは「ひえーっ」と言って笑った。おしっこの場合は、すごい滝の様な音が地面を叩きつける。自然というものは有難いもので、乾いた道はたちまちそれを吸収する。

 再び動き出すと、大きい方は取り残され荷台はその上を通りすぎるので、私達ぶら下げた足が別にそれに届くわけでもないのに、膝を真直ぐに伸ばして上げた。大きいものも間もなく乾燥して細かい繊維となるし、当時は畠の良い肥料としてすぐに近くの人が始末したのか、道が汚かった思い出はない。この頃のように、ビニールや紙屑が氾濫して散らかるようなこともない。自然できれいだったとこの頃つくづく思う。雨上がりの水溜りもよい遊び場となったのが懐かしい。

 そんな想い出の通学路も、今、帰郷してみるとまるで浦島さんである。区画整備されてビルや店が立ち並び、車が激しく往来している。

 目をつむると浮かんで来る私の中のあの道は、消えてしまった。今の若い人は馬車などというと、明治の頃のことのように思うかもしれないが、昭和十七年頃までは、日本の各地で見られた風景ではなかったろうか。

 若い馬たちも、お国の為に出征して行ったのであろう、だんだんと見かけることもなくなっていった。私達の周囲もまた、このようなのどかな風景どころではなくなっていったのである。

 

 二、大君の辺にこそ死なめ

  ♪ あの十二月八日の日、

    太平洋の真中で

    大きな手柄を立てたのは

    若い九人の勇士です ♪

 これは、当時私達が学校で習って歌っていた歌の一節で、ハワイ真珠湾を攻撃した若い勇士達は軍神と称えられ、大東亜戦争の始まりを教えられた。その昭和十六年には、それまでの「尋常高等小学校」から「国民学校」と名称が変わり、私はその二年生だった。

子供たちは登下校のたびに奉安殿に拝礼していた
子供たちは登下校のたびに奉安殿に拝礼していた

 学校は、門を入ると左手に奉安殿があり、先ずその前では直立不動の姿勢をとり、それから最敬礼をする。次に学校の正面玄関に向かって最敬礼をする。右に少し歩くと池の側の植込みに、薪を背負い本を読んでいる二宮金次郎の銅像が建っていた。その前に立止まりまた敬礼をしてから、やっとそれぞれ自分の教室に向かって駆け出して行った。

 正月、紀元節、天長節、明治節には全校生徒が講堂に並び式がとり行われた。前日には、その予行練習をする。

 壇上の校長先生が白い手袋をはめ、正面の扉に向かって深々と最敬礼をされると、生徒もそれに合わせた。きちんと伸ばして揃えた手は、男子は脇のままで、女子は自然に前膝まで、背筋は真直ぐ直角に倒すのが最敬礼である。

 ピアノの先生が、ゆっくりと大変厳かな和音の曲を奏でられると、生徒は再び頭を垂れ、観音開きの扉のきいきいと鳴る音が止むと同時にピアノが終わり、敬礼して顔を上げる。その正面には、胸いっぱい勲章の天皇皇后両陛下の御真影があった。それからまた「朕思うに…」の教育勅語がうやうやしく読み終えられるまで、かなりの時間が掛かった。

 生徒達は寒い講堂にずっと頭を下げているので、きまって皆ずるずると鼻水が垂れて来る。式の間中、広い講堂は、校長先生の厳かな声と生徒の鼻水をすする音だけが響いていた。黙ってじっとしているのがかなりの苦痛で、頭を下げたまま隣と横目でひそひそと話したり、男の子など足で突つき合ったりする者が居て、受持ちの先生は自分の組の子を気にして見て居られるらしく、後で決まって叱られた。終わるとみんなほっとして、ざわざわと緩んだ空気が次の号令の瞬間まで漂っていたものである。

 戦争が厳しくなると銅の需要で二宮尊徳先生も供出されることになり、お別れをした。ぽつんと主の居なくなった場所に向かって、やはり私達は敬礼をして通った。

 奉安殿は御影石で出来ていて扉は何やら鋼鉄製だったが、陛下の御真影に火災、紛失等もしもの事があったならば、当時、校長の命にも関わる一大事であったということは、この間、昭和の終わった時はじめて何かで読み、成程と深く頷いたものである。

 四年生位だったと思うが、歴史で歴代天皇の名前を覚えるのが宿題だった。中々みんな覚えられないので先生は、家の近い人で小さな班を作りみんなで協力して覚えるようにと云われた。私の家にも四、五人が集まり、外の芝生でしばらく遊んでいたが、思い出して宿題に掛かることにした。そのまま寝ころんで青い空を見ながら、「ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク……」とやり始めたが、「こんな恰好でゆうたら、罰が当るよ」ということになり、芝生にきちんと正座をし手を膝に揃えて、また一代からやり直した情景が、今も浮かんでくる。

 引っ掛かると、みんなで「ウ~ント」「ウ~ント」と云っては考え、「……ゴハナゾノ」などと思い出した子が口に出すと、またしばらくお経のように、吸う息も吐く息も天皇の名前になって出て来た。「明治、大正、今上天皇」と百二十四代迄を言い終えた時は、「フーッ」と溜め息をついて、皆大袈裟に倒れ込んでしまった。

 教育勅語もそうして覚えたが言葉がむずかしく、先生から訳して教えて貰ったことを、また覚えねばならなかった。

 むずかしいと云えば、思い出した。

 掃除の時間の前には、全校生徒が廊下に正座して、マイクから流れる「海行かばー♪」の歌を目をつぶって聞くことから始まった。昼休みの後の騒々しい空気を引き締めるのに、大変効果的だったように思う。

 私は、「大君のへにこそ死なめ」の響きがどうも気になって仕方がなかった。先生から「陛下のおそばに死んで行こうという意味ですよ」と教えられても、「どうしてへなんて云うんだろう…、変な言葉」と思いながら、目をつぶって聞いていた。

 軍歌は今でもかなり歌える。しかし、歴代天皇名や勅語の方は、殆ど忘れてしまった……。

 今思えばあの時代、天皇の名のもとに国民はかなりの洗脳教育を受けていたものだと思う。

 

 三、学 校 生 活

 私達が高学年になるのと歩調を合わせるように、戦争はだんだんと激しくなっていった。食料も乏しくなり、私達は鍬を振り下ろすと跳ね上がってしまうような堅い運動場を掘り起して畠にし、さつまいもを植える作業に精を出した。

 或日には、各々自分の家から持ってきた瓶を手に、青田にみんなでいなごを採りに行った。見つけて採ろうとすると、いなごはくるりと葉の裏側に隠れる。ようしとばかりに両手を山形に作って、ぱっと合わせると、中でぴょんぴょんしてとても気持ちが悪いけれど、「これで、十匹になったぞ」と数えては収穫を喜んだ。早速瓶の口から入れるのだが、みな入るのを嫌がってもがくので片足を外に置いたまゝ押し込められるのもいた。中では折り重なってもがいているが、「これは、佃煮になって戦地の兵隊さんの大切な蛋白源になるのです」ということで、気味悪がっていては申訳ないと思った。

 それに比べると、私の面白かったのは松脂取りである。家から各自小さめの鋸と鉈を袋に入れて持参する。油脂を受けるのは竹の筒の一節で、上の方に釘を打ちつける為の穴があけてあった。学校からそう遠くない松の山に、クラスでその日は出かけるのだが、この松にしようと自分で決めると、各自その幹の凸凹した堅い皮の表面を鉈で削り、先ず真中に一本、白い肌の見えるまで彫って溝を作る。それに向かってYの字に斜めの筋を何本か両方に入れていく。真中の溝の下部に、持って来た竹の筒を釘で打ち付けて出来上がる。鋸を使うのはかなり難しかったが、要領を掴めば何とかなるもので、皆一生懸命だった。

 何日かして、また皆んなで見に行って収穫する。松の油脂が溝を伝ってぽたぽたと落ち、溜まっているのを見ると何となくいとおしくて感激した。「少しずつでもこうして全員のを集めれば、それがお国の為に役に立つのです」と先生に教わり、私達は満足だった。松脂でべたべたした手をやがて真黒にし、みんなで「お山の杉の子」を歌いながら学校に帰っていった。当時の米英の豊富な物資・戦力と日本の窮状との差など知る由はなかった。「南の島で戦っている兵隊さんから送られた大切なゴムで作った運動靴ですから、皆さん大事に履きましょう」と時折配給されていたズックも、終わり頃にはその数も少なくなり、くじ引きで決めた。今回外れた人はこの次に引く権利が残される。今度いつ当たるかわからないので、破れたら繕って大切に履いた。それでもだんだんと心細くなった頃、藁の草履の編み方を習った。教室の机を全部片方に寄せて広くし、みんなで足を前に出し親指に縄を引っかけて草履を編む、家から布切れを裂いて何本も持ってきて藁と一緒に編むと、自分の模様は出来てうれしくもあり、その方が丈夫で足もあまり痛くなかった。右と左の大きさが違って出来上がったりしたけど、晴れた日にはそれを履いた。雨の日は草履では歩けないし、ぴちゃびちゃになったものは後で乾かしても駄目になってしまうので、はだしで通学した。

 錦帯橋の架かる錦川沿いに五粁余りも遡ると多田という所があった。今の新幹線岩国駅の近くである。六年生の或る日、そこまでみんなで歩いて行った。包帯とヨードホルムか何か少しばかりの薬を入れた救急袋には、各自の住所氏名年齢を書いた布が縫い付けてあり、それを肩から斜めに掛けた。防空頭巾を背に、鎌を入れた袋は手に持っている。

 歩き着いたそこは、敵に秘密の第二の飛行場を作っているという名所であった。新しい砂土の平地が広がっていて、暑い日差しが眩しかった。私達の仕事は、一人が一本か二本のなるべく葉の多くついた木の枝を近くの山から切り出し、引きずりながら運んで来てその新しい白い土の上に突き立てて、偵察に来る敵機に上空から見付けられるのを防ぐとういう作業だったのである。空襲警報になったら全員持った木を自分の上に被い、爆風で目玉が飛び出ないように四本の指で目を押さえ、親指では鼓膜が破れないように耳を押さえて地面に伏せるよう教えられた。実際にけたたましいサイレンが鳴って地面に伏せた時には、胸がドキドキした。解除になって見上げると、B29が青い空の高い高い所にくっきりと真白な線を残し、その線を悠々と延ばしながら去って行くのが見えた。「ここをやっぱり偵察されてしまったのかなあ」と心配した。が、実際にはその飛行場が完全に出来上がるより前に、日本は敗戦国となってしまった。

 

 四、桜 に 錨

 ♪ 若い血潮の予備練の

   七つボタンは桜に錨

   今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦に

   …………………… ♪

 と私達は歌っていたが、岩国の空にも彼等は飛んでいた。オレンジ色の二枚羽根の練習機をみんなは「赤とんぼ」と呼び、宙返りの練習をしているのをよく見上げていた。胴と羽根に印された大きな赤い日の丸が印象的だった。ある時は、黒煙を吐きながら瀬戸内海の方に落ちていく光景が、小高い私の家からはよく見えた。

「可哀そうにのう……」

 母はそう云って、いつまでも沖をみつめていた。

 いずれは戦地に赴く若い彼等に、温かい安らぎを与えてあげて欲しいというお触れもあったのだと思う。私の家にも七・八人の予科練生が、たまの休日には遊びに訪れていた。

 彼等は、大阪とその近辺の人達だったが、いかにも良い家庭の坊ちゃんという感じてあった。子ども心にも、その若くて男らしい、かっこいいお兄ちゃん達に、どこか甘く胸がキュンとなるものがあった。彼等は家に上がると、早速制服の上衣を脱いでコート掛けに着せ、それを鴨居に掛けた。

「あー、ええなあ。やっぱり畳の上は…」

 そう云いながら、それぞれ大の字になって寝ころんだ。コート掛けの制服は濃紺の詰襟で、前には七つの金色のボタンが光っていた。それにはまさしく桜の花に錨のマークが付いていて、「ほんとうに歌の通りだなあ」と私は感心してそれを見つめていた。

 母が井戸水で冷やしておいた取っておきの西瓜を切ると、みんな子どものように喜んで輪になって食べながら、明るい関西弁で賑わった。「そやさかいな」とか「そんなアホな」とかラジオで聞くことはあるけれど、生で聞くその話し言葉は珍しく面白くて「それ、なんゆうこと?」と一々聞く。私の方言が面白いと云って彼等はまた、一つ一つ声色まで真似をする。私は田舎言葉が恥ずかしくて赤くなってしまった。

 隊に帰って行く彼らを見送りながら、「みんな、ええ子じゃのう…戦地にはいつごろ行くのかのう……」と母は一人でつぶやいていた。

 特攻隊としてひとたび出陣すれば、帰らぬ彼等であった。あの時、名前を教えて貰ったのに忘れてしまった。終戦はどこで、どう迎えられたであろうか。私の胸は今もキュンとなる。

 

 五、防 空 壕

 昭和二十年の五月の或る日、私は家の裏の土手に行って遊んでいた。と、「ごーっ」という音が上空に聞こえたような気がして見上げると、めかだ山と呼ぶ高い山の上から、先頭に三機、六機、九機…と整然と編隊を組んだ飛行機が続々と現れて来た。

「おや? 何だか日本のと違うみたいだな。だけど警戒警報も出ていないのに…?」と思って見ていると、突然、鳥がフンでも落とすように編隊のどれもが、パラパラと黒いものを落としてきたのである。「敵機だーッ」と気がついた私は驚いて腰が腑抜けの様になり、どう走ったか、けたたましく鳴り始めたサイレンに急かされて、ころがりころがり家の横の防空壕に辿り着いた。

 爆音が激しく壕を揺るがせ、土がバラバラと落ちた。入口を塞いだ部厚い布団が爆風にハタハタと煽られた。私は防空頭巾の中の目と耳をしっかり押さえ、父、母、姉とその子供達みんなで肩を寄せ合い、息を殺して遠ざかるのを待った。「これは陸燃がやられたな」と父は云った。音が静かになり解除のサイレンで外に出てみたら、家は障子のガラスは殆ど壊れていたけれど、無事だった。すぐ近くに落ちたに違いないと私には思えたのだったが。

 家から裏手を見ると、左に高いめかだ山、右には低い山の尾根があり、そのすぐ向こうに陸軍燃料廠があった。高い上空から狙って命中させるには大部手前で爆弾を落として丁度よかったのであろう。東の空に真黒い煙がもくもくと上がっていた。次々とタンクが熟せられては爆発して、「ドカーン、ドカーン」という音がなった。その度に赤い焔と真黒い煙が上がり、見る見るうちに風に流されて岩国の空は真暗になっていった。日蝕の時、黒塗りしたガラスを覗いて見た様に、太陽は丸い輪郭をはっきり表し、「昼間なのに赤いお月様が出た夜みたいだ」と思ったその異様な光景を、今もはっきりと覚えている。タンクの爆発は長時間続いて、その日は暗いまま夕暮れになっていった。

 父たち当時の少ない男手は、隣組で集まって死傷者の救護に行き、遅くまで帰らなかった。黒焦げになった人達を次々と担架で運んだが、熱さと薬品の匂いで近づけない状態や、死傷者の痛ましさを云う父の口は重く、言葉は少なかった。……。

 

 六、ピ カ ド ン

 同じく二十年の八月六日。六年生の夏休み中だったが、その日は登校日だった。朝から夏の暑い日がじりじりと照りつけていた。学校に着き例の二宮尊徳像の跡におじぎをして走ると、小使室に伝わる屋根付きの渡り廊下があり、丁度そこを横切る時だった。突然に、「ピカッ」とあたりが一瞬青く光ったのである。光ったと云うよりもみな一瞬染まったという感じだった。「あれ? これは何だろう。稲光りとも違うし?」とキョロキョロとした次の瞬間に「ドーン」と地の底を揺るがすような轟きが、あたりの空気をも揺るがせた。と、けたたましく空襲警報のサイレンが鳴り始め、皆あわてて防空壕に向かって駆け出した。やがて、そこから校舎に向けぞろぞろ帰って来る途中で、東の空に不思議な雲が立ち昇っているのをみんなで見た。

「あれは何じゃろうね!」

「陸燃が又やられたんかね!」

「いいや、あの時の煙とは違うよ」

「うん、入道雲みたいだけど上が大きうてお化けみたい」

 東の空のきのこ雲はほんとうにお化けのように、どんどん高く大きくなっていったが、それは世界でも初めての「原爆」という恐ろしいものを見てしまったとは、その時、知る筈はなかった…。

 木村の恵美ちゃんと村中の昭子ちゃんは、二人共、学年が一年だけ先輩だった。その春に六年を卒業して広島女学院一年生となり、広島まで通学しておられた。あまりおしゃれのできるその頃ではなかったが、顔立ちもきれいで県女とはどこか違う、いかにも女学院という雰囲気の漂っているお二人に、私は何となく憧れていた。その恵美ちゃんと昭子ちゃんがピカドンにやられ顔も身体も大やけどになり、病院も大勢の死傷者をどうすることも出来ない状態なので、家に連れて帰って寝かせておられるということだった。

 「見舞いに行っても痛ましうて声の掛けられそうもないそうなのです」。私は可哀そうで仕方なかったが、うわさを聞いては心配し胸を痛めているだけだった。

 恵美ちゃんは一か月余りで亡くなってしまわれた。昭子ちゃんは幸いにも徐々に快復され、お元気になられたと後で聞きほっとした。

 その後私は郷里を離れてしまったが、今もお元気でお幸せに過ごしていらっしゃることを心から願っている………。

 

 七、終戦の前日

 原爆から一週間後の八月十四日。家から目の前に見下ろす岩国の駅前が爆弾にあったときは、ひどい爆裂音に防空壕の中の私はこれまで以上に脅えていた。

 大段ます子さんは、大柄で明るくドッジボールの滅法強い元気な子だった。彼女の家は駅の真ん前の食堂だった。私の通学路にはもう一つ駅廻りの道というのがあって、大段さんたち駅の方面の子と校門を出るのが一しょになり話に夢中になると、急きょ「今日は駅から帰ろう」という決定となった。そして大勢で賑やかに帰って行った。その途中には、憲兵隊があったが、高い高い塀に囲まれていて中は何も見えなかった。時折、長い軍刀を脇に長い皮靴を履き、帽子と肩に星の沢山付いたいかにも位の高そうな憲兵さんに会うと、少しだけ静かに通った。

 駅の真ん前まで行けば一そう遠回りになるにも拘わらず、一しょに歩いた。「うどん」と書かれたのれんの下で、大段さんは「さようなら、またあしたね!」と云って手を振る。私達も「またね!」と叫んで持っていた手提げ袋を振り回したりして、彼女がのれんの奥に消えるまで振り返りながら帰っていった。

 食糧は配給制度で、もうそれさえも乏しくなり、客に食べさせるもの等なかったであろうが、「うどん」「食堂」と書かれた看板はそのままになっていた。その黒い大きな文字が、今も私の目には浮かんでくる。

 彼女の家は直撃であった。駅の建物も街並も、少し離れた憲兵隊もなくなり、直径が五米から十米もある大きな穴ばかりになっていた。燃え残った家の跡というものさえもない、文字通りの蜂の巣状だった。二、三日して行ってみたのだか、爆風で飛ばされた死体が、まだあちこちにそのままになっていた。

 爆撃の翌日が終戦だった。天皇の玉音放送というのを私は聞いていない。前日の空襲で市内は電気がつかず、ラジオも聞けなかったのである。

 もう一日、否、たったのもう半日のことだったのに……。大段さんとたくさんの人々が死んでいってしまった。

 

 八、終戦のあと

 その年の九月には、枕崎台風という超一級の台風が西日本の各地を襲い、敗戦の痛手に打ちひしがれた人々に追い打ちを掛けるように猛威を振るった。私の家も想いがけぬ手痛い被害を蒙った。そうしたなか、兄が中支から復員し飄然と家族の前に立った時には、皆で声もなく肩をたたき合っていた。姉の夫からは、幼い子ども達に宛てて「オトウサンハ、コレカラオオキナオフネニノッテデカケマス。オカアサンノユウコトヲヨクキイテ、ゲンキニオオキクナッテクダサイ」という片仮名の葉書が、下関局の消印で送られて来たまま台湾沖に沈み、帰っては来なかった。

 第二学期からの学校は、それまで一生懸命やって来たことのすべてが御破算となった感で、先生も生徒も混乱していた。

 「米英撃滅」「欲しがりません、勝つまでは」と教室や廊下に力強く濃い墨字で書かれていた貼紙は、全部取り除かれた。

 授業といえば、「今日は国語の教科書を開いて。何頁の何行目までを黒く塗りつぶしなさい。何頁何行目の○○という言葉は見えないように黒く塗ること……」といった具合に、教科書のかなりの部分を塗りつぶしていった作業しか、その後の私の記憶には残っていない。六年生はそうして終わった……。

 

●新着情報

2023年11月に山口県岩国市西岩国駅ふれあい交流館で開催された「原爆と戦争展」のご報告と、アンケートを掲載いたしました。

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8/17 ご来場者の声・アンケート掲載

7/15 開催案内 掲載

戦争で犠牲となられた方々の御霊に謹んで哀悼の意を捧げます。そして、今もなお被爆による後遺症で苦しんでおられる方々に心からお見舞い申し上げます。 

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