岩国原爆戦争展展示内容福島原発 福島原発事故>なぜ地震列島に54基もの原発が

福島原発

なぜ時珍列島に54基もの原発が

なぜ地震列島に

     54基もの原発が

全土が地震帯に覆われている日本

 

設計当時、津波や耐震は前提になかった

 

「東京電力の福島第一原子力発電所を設計した当時は、米ゼネラル・エレクトリック(GE)の設計のコピーで津波は前提になかった。その後日本で独自の設計をするようになり津波を前提に設計するようになったが、想定規模は今回(推定最大10メートル)よりもはるかに小さかった。耐震設計基準についても判断できなかった。」

(元東芝の原子力事業部門のエンジニア・小倉志朗氏、事故後の記者会見で)

 

津波や地震を想定せず導入したGE社

 

当時、福島原発に導入したGE社製「マーク1型」原子炉は、大規模地震による負担に耐えうるよう設計されていなかった。公共事業各社がこの事実を十分深刻に受け止めていたとは思わない。分析が終了するまで一部の原子力発電所は閉鎖されるべきだと思っていたが、GEや公共事業各社はそれに応じるつもりはなかった。そのため私はGEを退職した」

(GEの元社員デール・ブライデンボー氏、米テレビ番組で)

 

マンハッタン計画

 

原爆製造計画は1942年9月17日、アメリカ政府が総指揮者として、グローブス陸軍准将を任命したことに始まった。計画本部がニューヨーク市に置かれる予定であったので、マンハッタン計画と名付けられた。

1942年になって、ウラン235を分離する3つの方法(遠心分離、拡散、電磁波分離)が発見された。また、プルトニウム239はウラン・黒鉛型原子炉、またはウラン重水型原子炉から取り出せるという見通しがたった。こうして、ウラン235を分離して作られたのが広島型原子爆弾、プルトニウム239を利用したのが長崎型原子爆弾である。この原子爆弾開発計画に参加した主要企業には、

 

 デュポン(ハンフォード原子力施設で建設・運営)

 ユニオン・カーバイド(オークリッジでガス拡散ウラン濃縮)

 テネシー・イーストマン(オークリッジで電磁分離ウラン濃縮)

 ウエスチングハウス(金属ウランの生産、電気機器)

 

ヘンリー・スティムソン米陸軍長官

 

「マンハッタン計画は単なる兵器の開発と考えるべきではない。……文明に対する脅威ではなく将来の平和の確証とするためそれをコントロールすべきだ。それはフランケンシュタインとなって、われわれを食い尽くすかもしれない」

(1945年5月)

 

戦後アメリカの原子力 

      平和利用キャンペーン

 

 戦後アメリカの原子力開発は、新しい水爆などの開発・実験をくり返す一方で、発電用原子炉や海軍艦船用動力炉の開発を進めるようになった。そこで、マンハッタン計画を引き継いだ原子力委員会が動力炉研究開発を独占管理するようになった。

 1953年、発電用原子炉の技術が民間に払い下げられ、民間電気メーカーが原子力発電所を建造、電力会社が原発を所有、運転する道が開かれた。

 ウエスチングハウス(WH)、GEなどの原発メーカーが登場した。GEは戦後、原子力潜水艦用原子炉の開発にも加わっていたが、発電用原子炉としては沸騰水型原子炉を選択した。東京電力福島第一原発には40年前、その最初の型式マーク1炉が持ち込まれた。

 GE、WH両社は、核兵器開発部門では米政府の計画を請け負いつつ、原発部門においては商業活動を進め、日本などに売り込みを進めた。日本では、正力松太郎がその受け皿となり道筋を着け、後の首相・中曽根康弘がそれを受け継いだ。

 

★有馬哲夫・早稲田大学大学院教授

 

 讀賣新聞・日本テレビの1955年前半の「原子力平和利用使節団」、後半の「原子力平和利用博覧会」などの一連のメディア・キャンペーンは、正力松太郎とアメリカ情報機関(CIA、国務省、合衆国情報局、極東軍司令部)の合作だった。

 

 アメリカ側の目的は、

.アイゼンハワー大統領の「アトムズ・フォー・ピース政策

 日本で実現すること。

.反原水禁=反米運動を沈静化させること、

.日本に核兵器を配備することを日本政府首脳に飲ませること

だった。

 目的を達成するためには、広島・長崎の原爆投下と第五福竜丸事件によって根強い「原子力アレルギー」を持っている日本の世論を転換する必要があった。

 

【原爆製造から原子力発電所建造までの経過】

1941年  3月

1942年  9月

1942年12月

 

1943年  1月

 

 

1943年  9月

1944年  9月

 

1945年  5月31日

1945年  7月16日

1945年  8月

-----------------

1953年12月

 

1954年  3月

1955年  5月

 

1955年12月

1956年  3月

1957年  7月

1957年

1959年

1971年  3月

 

カルフォルニア大学で、プルトニウム239の生成と核分裂に成功

マンハッタン計画始まる

オークリッジ(テネシー州)にウラン235を分離・生産する工場の建設を開始

ハンフォード(ワシントン州)にウラン238からプルトニウム239を生産する工場建設を開始

ロスアラモス(ワシントン州)に原爆組み立て工場を建設

秘密裡に第509混成部隊による原爆投下訓練を開始

米英が「原爆が完成すれば、日本に対して使用する」ことを確認(ケベック会談)

スティムソン陸軍長官、「兵器だけでなく平和利用」を提言

モラモドゴードで初の原爆実験に成功

広島(6日)と長崎(9日)に原子爆弾を投下

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アイゼンハワー、国連で「アトムズ・フォー・ピース」(平和のための原子力)演説

中曽根康弘、国会で2億3,500万円の原子炉建設費を含む原子力予算提出。成立

米・原子力平和利用使節団、正力松太郎・読売新聞社の招きで来日

正力松太郎、原子力委員長就任

正力松太郎、科学技術庁長官に就任

茨城県東海村で日本初の原子炉稼働

国際原子力機関(IAEA)設立

中曽根康弘、科学技術庁長官に就任

福島第一原発運転開始


●新着情報

2023年11月に山口県岩国市西岩国駅ふれあい交流館で開催された「原爆と戦争展」のご報告と、アンケートを掲載いたしました。

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●更新情報

8/17 ご来場者の声・アンケート掲載

7/15 開催案内 掲載

戦争で犠牲となられた方々の御霊に謹んで哀悼の意を捧げます。そして、今もなお被爆による後遺症で苦しんでおられる方々に心からお見舞い申し上げます。 

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